最近わかったこと 韓国にて
クラスにシリア人の女の子がいる。
オンライン授業の時はいつも髪をお団子にして半袖のTシャツを着ているのだけれど、昨日学校で試験があって、彼女はお洒落なストライプのターバンに、シャカシャカの長袖長ズボンという出で立ちで登校してきた。
普段意識にのぼらないことに直面して、はっと背筋の伸びる瞬間がある。
真夏にあの格好はきっとものすごく暑いはずだ。
たとえばそれを辞めたいと思ったり、涼しげな格好で歩く女の子たちを羨ましく、あるいは恨めしく思ったりすることもあるのだろうか。
それとも、そんな浅はかな考えを超越したところに彼女はいるのだろうか。
どうしようもなく共に生きていかなければいけないもの、それはどんな人にも一つくらいあるだろうが、それを受け入れてすっくと立っている人の強さとうつくしさよ。
と同時に、ビデオ通話は室内のカウントで良かったんだ、という宗教の人間味にもほほえむ。
あと、彼女はその1回きりしか登校してこないので、やっぱり夏に外出るのはめんどくさいのかもしれない。
なにかをしながらご飯を食べるとどうも食べ過ぎてしまう。
昨日は、タッカンジョンのお店を検索していたら片手間に食べていたポン菓子が半分になっていた。
今日はYoutubeライブをしていたのだけど、前回ぜんぜん食べれなかったから今回はちょこちょこつまんでみたら、20時半頃に食べ始めたのにまだ満腹感が抜けない。
元々人より満腹ラインを見定めるのが苦手なのに、さらに他のことにも意識を分散させているものだから「まだいける」と思ってしまう。
というか、そもそも食事というのは「まだいける」で食べるものではないのだった。
味の紹介をするくらいでフェードアウトさせた方が話しやすいし、自分のためにもなるのかもしれない。
落ち込んだので昨日からまいさん(まよTV)の筋トレを、太もものやつも追加でやることにした。
起きたら太ももがくっつかなくなっていた。こんなに進化が早いなら3ヶ月くらいでシン・ゴジラになれるかもしれない。
大切な友達がnoteを教えてくれた。
読んでちょっと軽くめまいがした。
わたしはいつも脳直のイメージで文章を書いて、書きながら考えて、とやっているものだから、URLを教えてもらってまだ読む前に「文章を書くと心が休まるよね」と迂闊な言葉を発してしまって、後悔している。
彼女の方向性はわたしのそれとは違っていた。
まず日々思うところがあって、それが積み重なって、どんどん深いところにもぐってゆく。
これを書いている時、彼女は深淵にいるのだと思った。深淵で、目をつむって、自分の中にある社会の像と向き合っている。それでありながら、彼女自身のおだやかな光で、深淵をゆっくりと照らしている。
お気楽な、脱ぎ捨てた服みたいな日記と同じ地平で語るのはおこがましい。彼女は、「消費」されない人間たりえると、強く思う。
わたしも消費されない人間になれるだろうか?
周囲はわたしを消費しまいとしてくれているのに、見知らぬわたし自身が消費されることを望んでいそうな気がして、怖い。
日常を切り売りして生きている。