6/19 ☀︎ 🇰🇷にて

先日、なぜかクローゼットの中に仕舞われていた机を窓際に引っ張り出して模様替えをした。

ちいさく、下が棚になっていて足が入らないことに不満はあるが、行儀のわるい私は思いっきり足を広げたりベッドの上に投げ出したりして、夏の光と部屋に染み込んでくる風を浴び、人々のざわめく声、街の匂いに包まれながら勉強をしたりものを書いたりすることを、とても楽しく思っていた。

しかし、今日私は気づいてしまった。

網戸2枚では紫外線にちっとも歯が立たないじゃないか、部屋にいながらにして私は真っ黒けになってしまったらどうしよう……。

せっかく今ならうつくしい文章が書けるかと思ったのに、最後に現実が顔をのぞかせて全てを台無しにしてしまった。

日の光を浴びることはカルシウムの吸収につながるのだから、まったく外に出ない生活ではむしろ健康のためにいいじゃないか、と自分に言い聞かせつつも、今日は反対側の窓を開けることにして、パソコンの画面に映し出された私の顔は、窓の色につられて少し青白かった。

 

さっきまで『若草物語』を読んでいた。

青空文庫の、水谷まさる氏が訳しているバージョンである。

もちろん私が楽しみにしていたのは映画の方だが、ストーリーを先に知っておく必要がある、というコメントを見たのと、もし韓国で公開されたとしてこの拙い英語力で物語を追わざるをえないことへの不安があったからだ(韓国にいる間に英語が上達してしまうかもしれない)。

文章を追い始めると眠っていた頭がようやく動き出して、これは小学生の時分に読んだことがあるぞと教えてくれた。

従姉がおさがりをくれた、硬い表紙の文庫本で、装丁には細かい花か植物の柄が描かれており、赤色と青色と緑色か、3色ぶん、全部で30冊ほどあったように記憶している。

世界中の名作をあつめて作られていて、確か幼い私はギリシャ神話とローマ神話を愛読していた。

ほかではおなじ文庫本を見たことがなく、しかしもはやどこにも見つからなくてもいい、私だけの思い出、心の本棚である。

 

その中に確か、若草物語は入っていた。

そもそも読んだことのあるような気はしていたのだが、そうだと確信したのは、ベスが病の床に伏すくだりである。

逆に、それ以外の部分はほとんど初見のような気持ちで読んだといっても過言ではない。ベスが回復したかどうかさえ私は覚えていなかった。

ただこんなにも優しくとうとい人が、無差別に命を奪われかかってしまうことが幼い心にはあまりに痛ましかったのだと思う。

大きくなった私も同じで、ベスを心から愛しているし、ベスのように生きたいと願う。

本を読んでいると脳内に勝手に映像が再生されるたちで、今回は隣の家のローリイにティモシー・シャラメ、愛すべきベスはなぜかモトーラ世里奈がキャスティングされていた。しかもジョウはたぶん長井短だった。

 

ジョウが男の子のようでありたいと願い、ローリイと仲良くなってはしゃぎ回る辺りはとても朗らかで、狭い部屋のベッドに横たわる私の心も跳ねたが、父親のために髪をバッサリと切った彼女を「すっかり女の子らしくなった」と家族が評し、少しばかり複雑な気持ちになった。

身勝手に、彼女にとってこの展開は本当に幸せだっただろうか、と考えてしまう。

彼女は少なからずアウトサイダーでありながら、時代の要請で「普通」に収斂していってしまうような人であり、今この物語が書かれていたなら彼女の未来は変わっていたかもしれない。

いや、しかし彼女にとっては家族の鞘に収まり続けることが何よりの幸せであるのかもしれない。そのための細やかな抵抗のあらわれが、ローリイとゆく外国漫遊であろうか。

結末で描かれるローリイとジョウの会話はすばらしく、その言葉通りずっと共に旅をし続けるような二人であってほしいと願う。

 

時に複雑な心境を抱えつつも、清らかに母が娘の幸せを願う気持ちは普遍的なものだと伝わってくるし、なにより頭の中で繰り広げられたこの作品世界があまりにとうとくて、全体としては時代が変わっても読み継がれるゆえんを強く感じた。

だれかに共感するというよりは、エピソードひとつひとつには感情移入すれど、全体として物語そのもののうつくしさを慈しむような作品ではないかと思う。